丁寧な時代風俗描写が紡ぐパラレルワールド 広瀬正『エロス もう一つの過去』~扇治の私的時間傑作選その④~ [お気に入り・おすすめ]
縁あってわが家にやって来た黒猫こまち。
今や私たち家族にはその存在が欠かせない、大事な同居猫です。
今や私たち家族にはその存在が欠かせない、大事な同居猫です。
でも、
もし彼女の身体が黒ではなかったら?
現在の私たちを取り巻く環境は、大きく変わっていたかもしれません。
もし彼女の身体が黒ではなかったら?

そんな「もし、~だったら?」というパラレルワールドを描いた広瀬正の名作『エロス もう一つの過去』(1971年刊)をご紹介。


『エロス もう一つの過去』
発端あらすじ
発端あらすじ
雑誌の〈あなたにとっての「あのとき、ああしていたら・ああしなかったら」は、どんなことですか?〉というアンケート企画に、大歌手・橘百合子が寄せた回答。
この答えに興味を持った女性記者に、昭和八年に上京した時からの自分の過去を語り始める百合子。
この答えに興味を持った女性記者に、昭和八年に上京した時からの自分の過去を語り始める百合子。

もともと兄弟が多く、暮らしが豊かではない家に生まれ育った赤井みつ子=橘百合子。 東北三陸地方を襲った地震・津波の影響を受けさらに苦しくなった家計を助けるため、十八歳のみつ子は東京の叔父夫婦を頼って故郷岩手を後にする。
初めて上京した彼女をあたたかく迎え入れてくれる、叔父と叔母。
市電の運転手である叔父にすすめられ、みつ子は昭和九年の市電女性車掌新規大量採用試験に応募することに。
当時の女性車掌といえば、タイピスト・エレベーターガールなどと並ぶ花形人気職業。
多くの女性が応募してくるだろうが容姿も声も良いみつ子は必ず合格すると叔父叔母は太鼓判を押し、当人もすっかりその気でいたのだが…。

結果は、不採用。
原因は面接時に、抜けきらない東北なまりを指摘されて。
自分では達者に喋っているつもりだったみつ子の標準語は、東京の人からすると接客業ではとても通用しないものだった…。
原因は面接時に、抜けきらない東北なまりを指摘されて。
自分では達者に喋っているつもりだったみつ子の標準語は、東京の人からすると接客業ではとても通用しないものだった…。
落胆する彼女に追い打ちをかけるように、叔父夫婦の家に降りかかる災難。
市電運転手の待遇改善を求めてストライキに加わった叔父が市電気局の処分を受け、解雇が大幅減俸の危機にさらされたのだ。
市電運転手の待遇改善を求めてストライキに加わった叔父が市電気局の処分を受け、解雇が大幅減俸の危機にさらされたのだ。
実の娘のようにかわいがってくれる叔父夫婦に恩返しをするため、すぐにできるだけ高い給料で働ける職に就こうと決心するみつ子。
女学校を出ておらずなまりの抜けない彼女が見つけた破格の高給職は、なんと美術学校の学生相手のヌードモデル。
女学校を出ておらずなまりの抜けない彼女が見つけた破格の高給職は、なんと美術学校の学生相手のヌードモデル。
そして運命の昭和九月二十日。 意を決したみつ子から「今日から働きに行く」と告げられた人のいい叔父は、その仕事が裸婦モデルなどとはつゆ知らず。
「うちのことは心配しないで、今までのように叔母さんの台所仕事を手伝ってくれればいいんだよ。今日はこれで活動写真でも見ておいで」と みつ子の掌に一円銀貨を乗せてくれる。
「うちのことは心配しないで、今までのように叔母さんの台所仕事を手伝ってくれればいいんだよ。今日はこれで活動写真でも見ておいで」と みつ子の掌に一円銀貨を乗せてくれる。
渡してくれた人の手の温もりが残る一円を握りしめ、今日は叔父の好意に甘え映画を見に行きモデル紹介所の門をくぐるのは明日にしようか…。
迷いに迷ったみつ子が向かった先は、東都の中心に開場したばかりの最新設備の映画館。
迷いに迷ったみつ子が向かった先は、東都の中心に開場したばかりの最新設備の映画館。

その帰り道ある事故に巻き込まれたことにより、みつ子は大歌手・橘百合子への道を歩み始める…。
物語は女性記者に百合子が語る「過去」のほかに、あの日映画館ではなくモデル紹介所を訪れた彼女が送ることになる「もう一つの過去」が並行して描かれラストでその二つの意外な関係が明らかに。
細い描写が紡ぐ
「二つの過去」の現実味
「二つの過去」の現実味
デビュー作『マイナス・ゼロ』次作『ツィス』に続き、広瀬正三作目の『エロス』も直木賞候補に。
しかし前二作同様に司馬遼太郎以外の選考委員に評価されず、落選。
失意のうちに広瀬正は、『エロス』刊行翌年にこの世を去っています。
しかし前二作同様に司馬遼太郎以外の選考委員に評価されず、落選。
失意のうちに広瀬正は、『エロス』刊行翌年にこの世を去っています。
確かにパラレルワールドを扱ったSFとしては当時でも突出して斬新なアイディアではなかったのでしょうし、現代ならライトノベルやアニメで『エロス』よりはるかに派手な設定が使われたりしています。
でも私にとってこの作品は、初読の折り感じたラスト一行の醸し出す静謐観とそこから立ち上るスケールの壮大さが未だ忘れられぬ名作。
地味と評されるどんでん返しも、「鬼面人を驚かす」ものではなくあえてこうしたのではというのが私的な感想。
作中語られる二つの過去のうち片方が、実は一個人の些細な行動の差異が世界を大きく変える「バタフライ効果」によるものというのが『エロス』のSF的仕掛け。
その仕掛けを活かすためには、どちらの過去もあり得るものだと読者に納得させなければいけません。
『エロス』では『マイナス・ゼロ』以上に細かく描かれた戦前・戦中の時代風俗が、二つの過去に説得力を持たせています。
ページの向こうから、自然とこんな情景が浮かび上がってくるよう。
『エロス』では『マイナス・ゼロ』以上に細かく描かれた戦前・戦中の時代風俗が、二つの過去に説得力を持たせています。

黒くない猫が
変える未来
変える未来
さてここで、話は冒頭画像に戻ります。
こまちが黒猫でなくほかの模様だったら、私たちを取り巻く環境は変わっていたのだろうか?
こまちが黒猫でなくほかの模様だったら、私たちを取り巻く環境は変わっていたのだろうか?
答えは、YES。
黒猫でないこまちの存在は、今ある世界を大きく変化させていたことでしょう。
黒猫でないこまちの存在は、今ある世界を大きく変化させていたことでしょう。
え、「お前んちの猫が黒かろうと黄色だろうと、こっちの暮らしには何の関わりもない」とおっしゃいますか?
いえいえ、
そうではござりませぬぞ。
そうではござりませぬぞ。
こまちが黒くなくて白猫だったら、まぁ大勢に影響はないでしょうが…。
アメショーもどきや三毛猫のように模様入りだったら、大変です。
アメショーもどきや三毛猫のように模様入りだったら、大変です。
何がどう大変って、筆者がイラスト描くのがもう大変。
で綴りましたようにこまちにはほかにきょうだいがいて、そのうちのはち割れの子をわが家に迎える可能性もあったのです。
今試しにこのイラストを描いてみただけで、かなり疲れました。

一枚絵を描くだけでこんなに手間がかかるのですから、いわんや動くGIF画像をや。
今回の話題「パラレルワールド」にちなみ、段違い平行棒に挑戦するこまち。
今回の話題「パラレルワールド」にちなみ、段違い平行棒に挑戦するこまち。

これを鉢割れ猫で作ろうと思ったら、黒猫の数倍時間をかけなくてはならないでしょう。
高座の仕事に噺の稽古・リアルこまちと遊んだりと、ヒマな弱小噺家なりに私にもやるべきタスクはけっこうあるのです。
とても、鉢割れこまちのイラストだけにかかずらっているわけにはいきません。
とても、鉢割れこまちのイラストだけにかかずらっているわけにはいきません。
いきおい、こまちをイラストで登場させる機会が少なくなる=呑気ブログの更新頻度も減る。
記事数が少ない素人ブログには、あまり人も訪ねてきてくれない。
記事数が少ない素人ブログには、あまり人も訪ねてきてくれない。
つまり、わが家のこまちが黒猫でなかったら。
今こうして本記事を読んでくださっているあなたと筆者との出会い自体が、無かったかもしれないのです。
今こうして本記事を読んでくださっているあなたと筆者との出会い自体が、無かったかもしれないのです。
ああ、
こまちが黒い子でよかった。
こまちが黒い子でよかった。

あらためてその感謝の気持ちを胸に刻み、これからもこまちと一緒に記事を重ねてまいります。
今後とも呑気ブログ、よろしくお願い申し上げます!
今後とも呑気ブログ、よろしくお願い申し上げます!

『扇治の私的時間SF傑作選』過去記事

お開きまでお付き合いいただきまして、まことにありがとうございます。ぜひまた、ご訪問くださいませ。
入船亭扇治拝
入船亭扇治拝
タグ:読書 猫