なぜ時の数は約2時間刻み?どうして一つずつ減る?~昔の時刻に関するおもしろ豆知識~ [江戸のトリビア]
二八そばの屋台、これからお勘定の黒猫こまち。
一文ごまかしたりしちゃ、
いけないよ。
いけないよ。
昔の時刻法
スルーしがちな疑問点
スルーしがちな疑問点
で取り上げた、落語『時そば』。
「九つ」「四つ」という昔の時刻の数え方をからめてそば代十六文の勘定をごまかす、という内容は落語ファンでない方もなんとなくご存知のはず。
「九つ」「四つ」という昔の時刻の数え方をからめてそば代十六文の勘定をごまかす、という内容は落語ファンでない方もなんとなくご存知のはず。
私もこれはよく高座にかける噺の一つで、「ひぃふぅみぃよぉいつむぅななやぁ、今なん時だい?」というせりふをこれまで何回喋ったかは数知れず。
また江戸豆知識を扱うカルチャー講座を持たせていただいてもおりますので、中世~近世日本の時刻の数え方はそれなりに理解しているつもりでもいました。
ざっとこんな認識のもとに高座でお喋りしてきたわけですが…。
あまりにも『時そば』が身近にあり過ぎて、
という基本的な疑問について、この歳になるまでじっくり考えたことがありませんでした。
という基本的な疑問について、この歳になるまでじっくり考えたことがありませんでした。
今回はいいきっかけなので、自分の理解を整理するためにもこの疑問点について考察してみたいと思います。
十二支で
24時間を分割
24時間を分割
まず①の疑問点。
「なぜ半日を一時という刻みで六分割するのか?」。
「なぜ半日を一時という刻みで六分割するのか?」。
これについては、発想の転換が必要。
半日を六分割=一日を12に分ける。
半日を六分割=一日を12に分ける。
「九つ~四つ」の数え方と不定時法より先に中国から
という時刻制が伝来。 飛鳥時代~平安時代までは、この時刻の数え方が主流だったそうです。
という時刻制が伝来。 飛鳥時代~平安時代までは、この時刻の数え方が主流だったそうです。
西暦671年には、やはり中国から伝わった技術を用いた「漏刻」=水時計がわが国で作られました。
サイフォンの原理で階段状に並べた水槽の高いところから水が落ちるようになっており、一番手前の箱に差した矢の目盛りで時刻を計ります。
そのほかにも香木の燃え尽きる時間を利用した「時香盤」や日時計など。 振り子やゼンマイ仕掛けの西洋時計が入ってくる以前から、日本人はかなり精度の高い時間の計測手段を有していました。
それらを使って、一刻をさらに細分化することも可能に。
約30分ごとに四つに分けます。※時代によっては三つに分けるやり方もあったそうです。
それぞれの一刻が始まって約1時間後、ちょうど真ん中に位置する時刻を「正刻(しょうこく)」と呼称。
例として午の刻を見てみましょう。 午前11時から始まった午の刻、正刻はただ今の午後12時にあたります。
「12時ちょうど=正午の刻(しょううまのこく)」。
「正午」という言葉は、
ここから来ているのですね。
例として午の刻を見てみましょう。 午前11時から始まった午の刻、正刻はただ今の午後12時にあたります。
「12時ちょうど=正午の刻(しょううまのこく)」。
「正午」という言葉は、
ここから来ているのですね。
このように「刻」とその中の四つの刻みを組み合わせて、30分単位で時間を表すことができた当時の時刻法。
怪談でお馴染み「草木も眠る丑三つ時」は、
という時間帯。 夜でも街灯やコンビニの明かりがある現代と違い、当時の真夜中といったら本当に幽霊が出てもおかしくないほど暗かったんでしょうね。
という時間帯。 夜でも街灯やコンビニの明かりがある現代と違い、当時の真夜中といったら本当に幽霊が出てもおかしくないほど暗かったんでしょうね。
時の数え方
一つずつ減る理由
一つずつ減る理由
今度は②の疑問点について。
「どうして九つから一時ごとに、数が一つずつ減るのか?」。
「どうして九つから一時ごとに、数が一つずつ減るのか?」。
奈良・平安の頃から鎌倉室町~江戸時代にかけて。
貴族の宮中や武士の城・館では正午や日の出日の入り・開門や登城など節目の刻限を知らせるため、一日のうち何回かの正刻に決まった数の太鼓を打って時報としていたそうです。
貴族の宮中や武士の城・館では正午や日の出日の入り・開門や登城など節目の刻限を知らせるため、一日のうち何回かの正刻に決まった数の太鼓を打って時報としていたそうです。
子の正刻=深夜0時には、太鼓を9回打ち鳴らす。
なぜ、9回なのか?
なぜ、9回なのか?
中国由来のわが国陰陽道の考え方では、奇数は偶数より縁起がいい「陽数」。
今でもお祝い事にお金を包むのに、割り切れる偶数の額は良くないとされていますよね。贈る相手とこちらの立場からするとご祝儀1万円だと少な過ぎるんだけど、一気に3万円は懐に厳しいなぁ。2万円あたりがちょうどいいんだけど、縁起が良くないからなぁ…。 こんなこと、誰しも一度くらいは考えたことがあるのでは?
今でもお祝い事にお金を包むのに、割り切れる偶数の額は良くないとされていますよね。贈る相手とこちらの立場からするとご祝儀1万円だと少な過ぎるんだけど、一気に3万円は懐に厳しいなぁ。2万円あたりがちょうどいいんだけど、縁起が良くないからなぁ…。 こんなこと、誰しも一度くらいは考えたことがあるのでは?
閑話休題。
そういった理由から、新しい日が始まる正子の刻に打つ時報太鼓は最大の陽数である9回と定められました。
そして次の正丑の刻は太鼓を打つ数が9回・さらにその後の寅の正刻には7回…正巳の刻の4回まで来ると、正午からはまた折り返して9回から。
そして次の正丑の刻は太鼓を打つ数が9回・さらにその後の寅の正刻には7回…正巳の刻の4回まで来ると、正午からはまた折り返して9回から。
これは9・8・7…と数が減っているわけではなく、陰陽道縁起上はあべこべに増やしているのです。
縁起のいい9という数が、子から巳まで・午から亥までそれぞれの正刻が来るごとに、一つずつ増えていく。その一の位の数が、時報太鼓の回数となっている。
なぜ十の位の数は省略するのか?
答えは簡単、数が多くなり過ぎるとまず太鼓を打つ時報係が大変だから。
答えは簡単、数が多くなり過ぎるとまず太鼓を打つ時報係が大変だから。
音で知らせる時報は時代が下るに従い、太鼓より遠くまで聞こえる鐘で行うことが多くなります。
ことに当時最大の人口密集都市江戸では市中9カ所に「時の鐘」が定められ、各拠点寺院では設置された和時計に従い毎正刻に鐘を撞いて時を知らせるシステムになっていました。
ことに当時最大の人口密集都市江戸では市中9カ所に「時の鐘」が定められ、各拠点寺院では設置された和時計に従い毎正刻に鐘を撞いて時を知らせるシステムになっていました。
重たい撞木を操って、9回鐘を撞くのはけっこう大変。
それが約2時間ごとに18回・27回と増えていき…。正巳10時・正亥22時を知らせるためには、計54回撞かなければならない。 きっと鐘より先に、撞き手の方が”音をあげて”しまうでしょう。
それが約2時間ごとに18回・27回と増えていき…。正巳10時・正亥22時を知らせるためには、計54回撞かなければならない。 きっと鐘より先に、撞き手の方が”音をあげて”しまうでしょう。
そこで便宜上十の位ははしょって、一の位の数で時を知らせることになったのです。
撞く数が減ってよかったね、小坊主こまちさん。
撞く数が減ってよかったね、小坊主こまちさん。
もちろん時の鐘が多いと、撞き手だけでなく聞く方もひと苦労。
例えば名作落語『芝浜』の発端、主人公の魚屋が海辺で朝の鐘に耳を傾ける場面。
明け六つだと思って河岸へやってきたのが、実は女房に一時早く起こされてまだ五つ時。
仕方がないから暇つぶしに煙草を吸いながら夜明けの海を眺めていると、波間に何やら漂うものが見えて…というところから始まる物語。 鐘の音の数が二桁だったらそれを数えるのに忙しくて、海の中まで目が届かなかったかもしれません。
明け六つだと思って河岸へやってきたのが、実は女房に一時早く起こされてまだ五つ時。
仕方がないから暇つぶしに煙草を吸いながら夜明けの海を眺めていると、波間に何やら漂うものが見えて…というところから始まる物語。 鐘の音の数が二桁だったらそれを数えるのに忙しくて、海の中まで目が届かなかったかもしれません。
こうして時の鐘が普及したことにより、江戸時代の時刻の呼び方の主流は十二支の「刻」より「九つ~四つ」の方へと移っていったのです。
江戸時代の
優れもの時計たち
優れもの時計たち
時の鐘と太陽や月の位置でおおよその時刻を知ることができた、江戸時代の人々。
庶民はこれで十分だったのでしょうがより正確な時刻を把握する必要がある立場の役人・学者や、贅沢品として所望する高級武士などのために。当時はけっこう精巧な時計が、日本国内で生産されていました。
もちろん大変高価で、とても庶民の手の届くものではありませんでしたが。
歌川豊国・画『忠臣蔵八景 二だん目の晩鐘』。
「一挺天符櫓時計」に手をかける加古川本蔵。
これ以前の時計は錘りなどの下部機構がむき出しになっていたものを、周りに覆いを付けることによって隠し工芸品としてのデザイン性をアップさせた大ヒット製品。
これ以前の時計は錘りなどの下部機構がむき出しになっていたものを、周りに覆いを付けることによって隠し工芸品としてのデザイン性をアップさせた大ヒット製品。
着脱が面倒なので腕時計というものを持たない筆者ですが、そんな私が画像を見て(あっ、これいいな!)思ったのがこちら。
「べっ甲蒔絵枠時打印籠時計」。
携帯式の小型時計ながら音が鳴る時報機能・方位磁石と簡易日時計を内蔵する優れもの。
携帯式の小型時計ながら音が鳴る時報機能・方位磁石と簡易日時計を内蔵する優れもの。
蒔絵仕立ての外装が美術品としての評価も高いこの時計、使っていたのは水戸藩主・徳川斉昭。
黄門様の子孫だけに、
印籠がお好きだったんですね。
印籠がお好きだったんですね。
この項での錦絵と印籠時計の画像は、
から転載させていただきました。
から転載させていただきました。
現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、見学は事前予約制になっている『セイコーミュージアム銀座』。
筆者は近々にweb予約、実際に足を運んで色んな時計をこの目で見てこようと思っております。
実現しましたら、また呑気記事にまとめてご披露しますね。
お開きまでお付き合いいただきまして、まことにありがとうございます。ぜひまた、ご訪問くださいませ。
入船亭扇治拝
入船亭扇治拝
タグ:江戸豆知識 落語 猫
わかりやすい説明をありがとうございます。
by ハマコウ (2022-06-01 19:15)
参考になる資料を有難うございました。
>>「一挺天符櫓時計」に手をかける加古川本蔵。
不定時法だと昼と夜で長さが違いますから、重りの位置を朝夕毎に2度動かしていたのかな?
「二挺天符櫓時計」では朝夕に自動的に切り替わっていたのでしょうね。
ただ、二十四節季毎に上下の天符重り位置を変えていたと聞いていますが・・・・・・・
どこかに資料は有るのでしょうか?
by 三九郎松 (2023-05-08 08:57)
三九郎松様
コメントありがとうございます。
セイコー博物館に資料はあるでしょうし、説明をしてくださる方もいるようですよ。
入船亭扇治
by 入船亭扇治 (2023-05-09 16:18)