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江戸の頃から変わらぬ空を、今年も泳ぐよ鯉のぼり [江戸のトリビア]


徳川家の端午の節句の模様を想像して描かれた、『江戸砂子年中行事 端午の図』(一部)。
江戸砂子年中行事端午図こまち.jpg
絵の右上に見えるのは、元気よく泳ぐ真鯉と黒猫こまち鯉。

町人階級の縁起物
紙製鯉のぼり

江戸時代初期から男子のいる武家では、端午の節句に家紋入りの絹幟や五色の吹き流しを揚げるのが習わしとなりました。邪気を避け、わが子の息災を祈念するもの。

時代も中期になると江戸の街では大商人などが力を持ち、町人の富裕層は武家のように端午の節句の縁起物を飾りたいと思うようになります。
しかし町人階級は飾り物に紋を入れることも絹の使用も禁止されていたため、庶民の知恵で代替物として考えられたのが和紙の「鯉のぼり」。威勢のいい鯉は川から滝を昇りさらに天に上がって龍になるという、中国の登龍門伝説に因んだ江戸町人オリジナルの縁起物。
続清鉋の鯉のぼり.jpg
出たての頃の鯉のぼりは、このように鍾馗様とセットで揚げられることが多かったそうです。

江戸時代の鯉のぼり.jpg
この鯉のぼりは幕末のものなので色がついていますが、それまでは黒しか許されませんでした。
有名な浮世絵・安藤広重『名所江戸百景 水道橋駿河台』に描かれた鯉のぼりも、武家の吹き流し以外はすべて質実剛健な真鯉だけ。
名所江戸百景 水道橋駿河台.jpg

大きな鯉のぼりを揚げられない長屋住まいの庶民たちも、こんな「おもちゃ浮世絵」でわが子の節句を祝いました。
おもちゃ絵鯉のぼり.jpg
切り抜いて組み立てる、江戸のペーパークラフト鯉のぼり。

こちらでご紹介した画像を含む貴重な資料満載の書籍が、
『鯉のぼり図鑑 おもしろそうに泳いでる』
日本鯉のぼり協会・編 林直輝・文 小学館・刊
きれいな写真がいっぱいで楽しくページを繰るうち、あなたも「鯉のぼり博士」になれますよ!
所蔵している図書館はけっこう多いので、ぜひお近くの館で探してみられてはいかがでしょう。

近所で泳ぐ
元気な鯉のぼりたち

5月5日まで好天に恵まれた、2023年東京のゴールデンウィーク。
特にどこへ遊びに行く予定もない弱小噺家も、本記事を書いたのをきっかけに『ご近所鯉のぼり巡りの旅』に出てみることに。

少子化が進みマンションが増えたので、最近住宅街で鯉のぼりを目にする機会も減っているような気がしていましたが、その気になって探してみるとどうしてどうして。
街のあちこちで、元気に泳ぐ鯉のぼりたちに出会うことができました。

まず振り出しは、うちからすぐそこにある大きなお宅の鯉のぼり。
泳ぐご近所鯉のぼり.jpg
去年より小さい鯉が増えているので、お孫さんが新しくお産まれになったんでしょう。

二世帯住宅の2階ベランダにて。
二世帯住宅の鯉のぼり.jpg

干してある布団と並んで、日光浴の鯉のぼり一家。
布団と鯉のぼり.jpg

♪隣のアンテナより高~い、鯉のぼーりー。
アンテナより高い鯉のぼり.jpg

ちょっと足を延ばして、西新宿の『芸能花伝舎』に毎年並ぶ鯉のぼり軍団に今年も再会。
花伝舎の鯉のぼりたち.jpg
鋭角的な高層ビルに向かって、丸々と風をはらんだ都会の鯉のぼりたち。
風はらむ鯉のぼり.jpg
そのまま吊ってあるロープから離れ、空の彼方へ泳いでいきそうです。

こま正面アイコン笑い.jpg

こうして街中で出会った鯉のぼりたちから元気をもらい、意気揚々と帰宅。
じゃあうちで留守番のこまちにも、女の子だけど鯉のぼりのおすそ分けを。
両手に鯉のぼり.jpg
花ならぬ、両手に鯉。

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お開きまでお付き合いいただきまして、まことにありがとうございます。よろしければまた、ご訪問くださいませ。
入船亭扇治拝

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令和最新版・「1両・1文」は現代だといくら? [江戸のトリビア]


「猫に小判」と申しますが…。
猫に小判.jpg
いやいや、猫にとっても1両小判は大変な値打ちがあるもの。
もらっといた方がいいですよ、こまちお殿様。

江戸時代の通貨
「金」と「銭」の関係は?

江戸の通貨は「金・銀・銭」の三貨制度。
計数通貨である金と銭の交換比率は、幕府開闢直後に 「金1両=銭4,000文」 と定められました。
公式交換レート.jpg

しかし時代が下るに従って金の産出量が減少し、文化文政期には銭6,400文・幕末には10,000文近くまで金1両の値打ちは高騰。

これを平均し
「江戸時代を通じて金1両=銀60匁=銭6,000文と考えておけば、落語や時代劇鑑賞に問題なかろう」
と榎本滋民先生がおっしゃっていますので、当ブログでもそれに従うことにいたします。

庶民の味で
文・両=円を換算

「江戸時代の1両とか1文って、現代だったらいくらぐらい?」
噺家をやっていると、お客様からこう聞かれることがけっこうあります。
このテーマはいろんな本やサイトで取り上げられていますが、本記事では呑気ブログならではのやり方でアプローチしてみましょう。

考えるアイコン.jpg

「両=円」を厳密に換算しようとしたらたとえば大工さんの賃金のように「生活水準」の観点からの比較も必要ですが、ここでは単純に具体的な物価のみに注目します。

この場合の比較対象として理想的なのは、江戸時代も現代もほぼ同じような金銭感覚で消費されている商品。
その品の「現代の価格」を「江戸時代の価格」で割ってやると、1文・1両が何円かということがわかります。

鰻などは昔より現代の方がはるかに高級魚になってしまっているので、比較ターゲットとしてふさわしくない。
よく対象として選ばれるのは「そば」、それも庶民によく食された「こまちそば」。
こまちそば.jpg
もとい、
屋台の「二八そば」。
二八そば食べるこまち.PNG.jpg

幕末には20文以上になったこともありますが、幕府の指導で基本的にいつどこで食べても一杯16文と相場が決まっていた流しのそば。
その二八そばと現代の立ち食いそばを比較すると、江戸の貨幣価値を円に換算することが可能に。

物価高騰の波は
立ち食いそば界にも

「二八そば:立ち食いそば」換算は、筆者が受け持っているカルチャー講座でもこれまで何度かやっています。
この10年くらいは現代かけそばの値段を「220~280円」で計算していたのですが、今では状況が変わりました。

一昨年からの諸物価高騰の波は立ち食いそば界にも容赦なく押し寄せています。
大手の『富士そば』は2021年から30~50円の値上げを数回繰り返し、2023年も明けてすぐにまた価格改定があったばかり。

筆者はこの1年くらい立ち食いそばはご無沙汰だったので、今いくらぐらいになっているのか浦島太郎状態。
さっそく現状把握のため、市場調査に赴きます。

笹塚駅前の富士そばに来て、券売機の前に立ってびっくり。
富士そば店驚く.jpg
いつの間にか、かけそばが税込390円になっているではありませんか!

「かけ一杯300円は、立ち食いそば業界にとっては越し難い一線」と言われていたラインを軽々と突破、既に400円台目前まで来ていたのです。

あな恐ろしや、
原材料費高騰。

猫向けにも
換算してみると

あまりの値上げ額にめまいがしましたが、気を取り直して実際に換算してみることにしましょう。

富士そばのかけ390円:二八そば16文ですから、390÷16=24.375。 24.375×6000=146250。
☆1文=約25円。
☆1両=146,250円。
2023年1月の時点で、江戸時代と現代・貨幣価値の相関関係はこうなります。

今後私たちの周りで、よほど大きな立ち食いそばの価格変動がない限り。
この数字を頭の片隅に置いといていただければ、時代劇や落語を楽しむ時にご理解が深まるのではないでしょうか。



さてここまで筆を進めてきたところで、そばで見守っている共同執筆猫のためにもう一つ換算をしてみることに。
1両は、CIAOちゅ~る何本分なのか?

再度取材のため、近所の島忠ホームズへと足を運びます。
ちゅ~る取材.jpg
スタンダードなちゅ~る4本入りが、今ならまとめ買いキャンペーン中。
普通にバラで買うと、税込198円。

198÷4、1本の値段49.5円。
1両=146,250円を、49.5円で割ると…。 約2,954本。

1両あれば、3,000本近いちゅ~るが買える。
毎日1本食べたとして、約8年もつ。

結論。
江戸時代の1両は、CIAOちゅ~る8年分に相当する。

価値ある1両小判.jpg

こうして猫にも小判のありがたみが充分わかったところで、渾身の研究これにてお開き。

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ご精読ありがとうございます。
よろしければ、またご訪問くださいませ。
入船亭扇治拝

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火事と同じくらい恐れられた、江戸時代の強風 [江戸のトリビア]


仕事帰り、楽しみに寄席へ行ってみたら…。
強風末廣亭.jpg
表の立札に今日の興行は「強風のため十八時まで」とあって、驚く黒猫こまち。

”風が吹けば桶屋が儲かる”というのは聞いたことがありますが、「風が吹いて寄席休み」とはいったいどういうことなのでしょうか?

火事慣れしていた
人口密集地の江戸っ子たち

「火事と喧嘩は江戸の華」。
こう謳われるほどとにかく火事が多かった江戸の町。

ヨーロッパに先駆けての100万都市・江戸は、大変な人口密集地。
なかでも庶民たちが暮らす下町の人口密度は、現在の3~5倍だったそうです。
そこに木と紙でできた棟割長屋などが軒を接してひしめいているので、いったん火の手があがるとあっという間に燃え広がってしまう。

当時は炊事や照明に炭やろうそくなどで直火を使っていましたから、ちょっとした不注意や弾みで火事が起きることは日常茶飯事。
生涯で一度も火事に遇わないで暮らしたという江戸っ子は、ほとんどいなかったのではないかというくらい。
文化の大火.jpg

それだけに江戸庶民たちは火事にも慣れており、火の手が迫ってもういけないという時は必要最低限の家財道具を持ってすぐに避難。
長屋の住人だったらあくる日からすぐ別の住まいを探す。
持ち家に住んでいる人も早ければ二・三日知り合いの家に身を寄せているうちに、火事で焼けたり破壊消火でつぶされてしまった家を前と同じ場所に再建できたといいます。

水路を使って豊富な木材が集められており腕のいい職人も大勢いた江戸だからこその、素早い復興。
今日の稼ぎはその日のうちに使い切る「宵越しの銭は持たない」江戸っ子の気風は、火事早い城下町に住んでいるから培われたとされています。

冬から春にかけて
乾燥と強風が襲う

日本全国でも発生件数が断トツに多かった江戸の火事、気候条件もその大きな一因でした。

冬場には平均して雨が少なく、隅田川が凍ったという記録があるほど現代より寒かった江戸。
そして11月~5月にかけては強い季節風が、八百八町に吹き荒れる。
ことに寒い時期の赤城や筑波からのおろし風は、身に応えたそうです。
赤城おろし.jpg

そういった強風が、江戸の町全体をカラカラに乾かしてしまう。
乾燥は大敵.jpg
乾燥はなるほどお肌の大敵でもありますが、小火で済んだかもしれない火の手の勢いを増す「火事の援軍」にもなりえますから恐れられたのですね。

興行は暮れ六つ限り
強風時の寄席

火事そのものと同じくらい強風を警戒した幕府は、あまりにも空気が乾燥して風の強い時は
・庶民の外出自粛要請
・表で火を扱う屋台のそば屋うどん屋などの営業禁止
といった対策を講じていました。

その一つが、
「風強き時には、寄席は暮れ六つをもって興行を仕舞うべし」
というお触れ。
考えるアイコン.jpg

舞台効果を最大限に発揮するため明るい日中(午前6時~午後4時)だった芝居興行と違い、芸人の顔がぼんやり見えているくらいでいい寄席は夜でも営業していました。
そのための灯りは、高座脇と客席に立てられたろうそく
ろうそく立てた寄席.jpg
このろうそくがもし倒れたらそこからどんな大きな火事が出るかもしれないという危惧から、強風時には日が暮れたら寄席は閉めなさいよということになったわけです。



ここでご存知の方も多いかと思いますが、寄席とろうそくについてのトリビアを一つ。

江戸時代の寄席では興行一番おしまいに登場する芸人が一席申し上げたあと、「本日はこれぎりでございます」ご挨拶しながら高座脇にあるろうそくの芯を鋏で切って消していました。

「切る」では縁起が良くないので「打つ」と言い換え、トリでろうそくを消せる立場まで出世した噺家が「芯打ち」=「真打ち」と呼ばれるようになったそうです。

私も小さなろうそくの明かりを、聴いてくださった方の胸にささやかながら灯せるよう精進重ねてまいります!
高座のろうそく.jpg

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ご精読ありがとうございます。
ぜひまた、お立ち寄りくださいませ。
入船亭扇治拝

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粋でいなせで話がわかる!頼れる江戸の町方与力 [江戸のトリビア]

朝湯の与力.jpg

腰に大小たばさんだ侍が銭湯の女湯へ入って行くのを見て、不審がる町娘こまち。

朝の女湯は
貴重な情報源

この侍は、別に出歯亀の不審者ではありません。
江戸南町奉行所の、
れっきとした町方与力。

「よりき」はもともと「寄騎」と書き、いざ有事の際馬に乗って駆けつけ身分の高い者に加勢する中級武士のこと。
徳川泰平の世になると「力で与(くみ)する」という意の表記に変わり、各奉行職直属の配下が与力という役職になります。

時代劇によく登場するのは南北各町奉行所に所属する、25騎ずつ計50騎の町方与力。



江戸庶民の行政・治安全般に責任を持つ町方与力には、いくつかの職務上の特権が与えられていました。
いちばん有名なのは「江戸七不思議・女湯の刀掛け」。
女湯の刀掛け.jpg
町方与力は屋敷のある八丁堀界隈の女湯朝風呂にフリーパスで入浴することができた。

その理由として、以下のようなことが挙げられます。
①当時朝湯は主に男の習慣で、朝家事などが忙しい女性が朝から湯屋に来ることはほとんど無かった。空いている女湯の有効活用。
②「八丁堀の旦那」が立ち寄るというのが評判になれば、湯屋とその近隣の治安維持につながる。湯に浸かるついでの巡回警備。
③朝から湯に浸かりに来る者の中には、裏稼業に通じる遊び人なども多かった。そういう者どうしが隣の女湯は無人だと思って交わす会話が、与力にとっての貴重な情報源の一つとなった。

③については後付け説で、史実としての信憑性は薄いとする意見もありますが…。
ホントに「女湯で諜報活動」が行われていたと考えた方が、時代劇としては面白いじゃありませんか。

身ぎれいで粋な
「江戸三男」筆頭

朝湯だけでなく、毎日出仕前に「自宅に職人を呼んでの髪結い」も町方与力だけの特権でした。
髪を整える与力.jpg
『幕末日本図絵』より

ほかの武士たちは、基本的に家臣の者に頭と顔の手入れをさせる。家来のいない最下級武士は、寂しい懐と相談して何日かおきに髪結い床へ行く。
そんな時代に町方与力だけは、公費を使い自分の屋敷でのんびりヘアーカットとフェイスエステができた!

もちろんこれもただの贅沢ではなく、商売上世間の広い髪結い職人からいろいろ話を聞き出すという職務上の目的はあったようですが…。
結果的に毎日月代と顔をあたって髷を結い直し、常に身ぎれいでさっぱりとしていられたのが江戸の町方与力。

常に町人と間近に接し市井の犯罪にも関与するので「不浄役人」とみなされ、武士としての町方与力の地位は一段低いものとされていました。
ほかの武士がそんな自分たちに向ける眼差しへの、反骨心もあったのでしょう。 町方与力の身なりや言動は、次第に武士であっても町人寄りになっていきます。

小銀杏という独特の細髷を結い上げ、武張らず粋な着こなしで江戸っ子口調が様になる「八丁堀の旦那衆」。
「与力さま素敵!」
と女性はもちろん。
粋な与力に一目惚れ.jpg
男連中からも憧れの的であった町方与力は大相撲力士・火消しとともに「江戸三男」とされ、その筆頭に数えられました。

副業は禁止だが
豊かだった与力の暮らし

与力の年俸は、
知行200石=約600万円。

現代からするとまぁいいサラリーのように思えますが、部下を大勢召し抱え付き合いも多い役職を鑑みるとあまり高給取りとは言えません。

下で働く同心たちは生活のための副業が認められていましたが、中間管理職たる与力自身には許されませんでした。

では江戸の正義の味方・」与力たちは、みな清貧のうちに暮らしていたのでしょうか?
答えは否、町方与力の多くは江戸の役人としてはけっこう豊かな生活を送っていたようです。

給料以外の収入源としては、まず各方面からの「付け届け」。
ことに100万都市江戸では人口半分を占める町人階級の暮らしを守る町方与力の存在感は大で、大商人・大名などから月々盆暮れ「これでよしなに」というものが八丁堀の住居に届けられる。

その住まいがまた豪勢で、町方与力たちは300坪という敷地に冠木門付きの大きな屋敷を構えていたそうです。

そしてさらに敷地内には、貸し屋敷を設けることも許されていました。
誰にでも屋敷を貸していいというわけではなく医者・学者に限定されていましたが、それはかえって社会的地位が高い知識階級のみが入居するということで貸し手としては大歓迎。

そんな優良物件からの家賃収入も、町方与力の重要な財源でした。
与力屋敷賃貸住宅.jpg

話のわかる
警察官僚兼検事

時代劇でお馴染みのお白洲で町奉行が咎人に言い渡すのは、最終的な罪状とそれに対する量刑。
お裁きちゅ~る抜き.jpg
罪状認否自体はお白洲での調べの前に、町方与力の方で済ませておかなくてはなりません。

部下である同心・非公式の配下岡っ引きと目明したちが集めてきた証拠証言をもとに、与力が被疑者の罪を確定。
江戸町方与力の職務は、現代の警察官僚と検事の役を兼ね備えていたと言えます。

当時は基本的に自白が必須とされていたので、被疑者は複数の与力から「きりきりと白状いたせ!」と厳しく取り調べられます。
「石抱き」「釣り責め」など名前からして恐ろしげな責め苦も時して用いられたようですが、それには町奉行の許可が必要。

ですから町方与力は、むやみと拷問を行っていたわけではありません。
むしろ、その逆。

拷問までしなければ被疑者の口を割ることができない役人は、まだまだ未熟者。
取り調べを担当する「吟味方与力」はいかにして拷問を行わず説得で相手に罪を認めさせられるか否かで、職務上の実力が問われました。
「暴力でなく、口で被疑者を落とす」。
与力は落とし上手.jpg
現代の取り調べ室での、「話のわかるベテラン刑事とカツ丼」なんて絵柄を思い起こさせます。

町方与力の取り調べ現場に立ち会い「封建社会でありながら、比較的公平に行われている」という感想を抱いた海外の人が、こういう絵も残しています。
吟味方取り調べ.jpg
『幕末日本図絵』より

わが家の
治安維持隊出動

筆者がここまで書いてきた記事を読み、自らも正義感に目覚めた黒猫こまち。

「アタシも与力のように、
うちの平和を守るんだ!」

部下のクロヤマさんシロヤマさん・専用パトカーとともに、わが家の治安維持隊いざ出動!
黒猫チーム.jpg

…と思ったら。
今日も30度を超す厳しい残暑に、維持隊一同ひっくり返って。
暑さでお休み.jpg
う~む、うちの与力は
思ったより「非力」だなぁ…。

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なぜ時の数は約2時間刻み?どうして一つずつ減る?~昔の時刻に関するおもしろ豆知識~ [江戸のトリビア]


二八そばの屋台、これからお勘定の黒猫こまち。
時そば.jpg
一文ごまかしたりしちゃ、
いけないよ。



昔の時刻法
スルーしがちな疑問点

☆『詐欺の名称にもなった有名落語と、人間国宝の面白エピソード~噺家たちの”洒落になる高座でのミス”その②~
で取り上げた、落語『時そば』
「九つ」「四つ」という昔の時刻の数え方をからめてそば代十六文の勘定をごまかす、という内容は落語ファンでない方もなんとなくご存知のはず。

私もこれはよく高座にかける噺の一つで、「ひぃふぅみぃよぉいつむぅななやぁ、今なん時だい?」というせりふをこれまで何回喋ったかは数知れず。

また江戸豆知識を扱うカルチャー講座を持たせていただいてもおりますので、中世~近世日本の時刻の数え方はそれなりに理解しているつもりでもいました。

明治維新以前の 日本の時刻制
☆日の出36分前・日没36分後を起点に、昼夜それぞれを「一時(いっとき)」ずつに六等分。

☆春分・秋分時の一時は2時間。それ以外は昼夜の一時が季節により2時間36分~1時間24分と変化する「不定時法」が、一般生活では用いられた。

☆深夜0時・午後12時を「九つ」と数え、九つから一時経つごとに「八つ」「七つ」…「四つ」まで順に一つずつ数が減っていく
ざっとこんな認識のもとに高座でお喋りしてきたわけですが…。

あまりにも『時そば』が身近にあり過ぎて、
①「なぜ半日を一時という刻みで六分割するのか」
②「どうして九つから一時ごとに、数が一つずつ減るのか」
という基本的な疑問について、この歳になるまでじっくり考えたことがありませんでした。

考えるアイコン.jpg

今回はいいきっかけなので、自分の理解を整理するためにもこの疑問点について考察してみたいと思います。


十二支で
24時間を分割

まず①の疑問点。
「なぜ半日を一時という刻みで六分割するのか?」。

これについては、発想の転換が必要。
半日を六分割=一日を12に分ける。

「九つ~四つ」の数え方と不定時法より先に中国から
一日24時間を定時法で12の「刻(こく)」分割し、それぞれに十二支の名を冠する。
という時刻制が伝来。
時刻 十二支.jpg
飛鳥時代~平安時代までは、この時刻の数え方が主流だったそうです。



西暦671年には、やはり中国から伝わった技術を用いた「漏刻」=水時計がわが国で作られました。
漏刻.jpg
サイフォンの原理で階段状に並べた水槽の高いところから水が落ちるようになっており、一番手前の箱に差した矢の目盛りで時刻を計ります。

そのほかにも香木の燃え尽きる時間を利用した「時香盤」や日時計など。 振り子やゼンマイ仕掛けの西洋時計が入ってくる以前から、日本人はかなり精度の高い時間の計測手段を有していました。

それらを使って、一刻をさらに細分化することも可能に。
昔の時刻.jpg
約30分ごとに四つに分けます。※時代によっては三つに分けるやり方もあったそうです。

それぞれの一刻が始まって約1時間後、ちょうど真ん中に位置する時刻を「正刻(しょうこく)」と呼称。
例として午の刻を見てみましょう。
午の刻.jpg
午前11時から始まった午の刻、正刻はただ今の午後12時にあたります。
「12時ちょうど=正午の刻(しょううまのこく)」。
「正午」という言葉は、
ここから来ているのですね。

このように「刻」とその中の四つの刻みを組み合わせて、30分単位で時間を表すことができた当時の時刻法。

怪談でお馴染み「草木も眠る丑三つ時」は、
丑の刻=午前1時から三つ後=午前2時~2時30分
という時間帯。
幽霊こまち.jpg
夜でも街灯やコンビニの明かりがある現代と違い、当時の真夜中といったら本当に幽霊が出てもおかしくないほど暗かったんでしょうね。


時の数え方
一つずつ減る理由

今度は②の疑問点について。
「どうして九つから一時ごとに、数が一つずつ減るのか?」。

奈良・平安の頃から鎌倉室町~江戸時代にかけて。
貴族の宮中や武士の城・館では正午や日の出日の入り・開門や登城など節目の刻限を知らせるため、一日のうち何回かの正刻に決まった数の太鼓を打って時報としていたそうです。

子の正刻=深夜0時には、太鼓を9回打ち鳴らす。
なぜ、9回なのか?

中国由来のわが国陰陽道の考え方では、奇数は偶数より縁起がいい「陽数」
今でもお祝い事にお金を包むのに、割り切れる偶数の額は良くないとされていますよね。贈る相手とこちらの立場からするとご祝儀1万円だと少な過ぎるんだけど、一気に3万円は懐に厳しいなぁ。2万円あたりがちょうどいいんだけど、縁起が良くないからなぁ…。
ご祝儀奇数.jpg
こんなこと、誰しも一度くらいは考えたことがあるのでは?

閑話休題。

そういった理由から、新しい日が始まる正子の刻に打つ時報太鼓は最大の陽数である9回と定められました。
そして次の正丑の刻は太鼓を打つ数が9回・さらにその後の寅の正刻には7回…正巳の刻の4回まで来ると、正午からはまた折り返して9回から。

これは9・8・7…と数が減っているわけではなく、陰陽道縁起上はあべこべに増やしているのです。
昔の時刻一覧表.jpg
縁起のいい9という数が、子から巳まで・午から亥までそれぞれの正刻が来るごとに、一つずつ増えていく。その一の位の数が、時報太鼓の回数となっている。

なぜ十の位の数は省略するのか?
答えは簡単、数が多くなり過ぎるとまず太鼓を打つ時報係が大変だから。

音で知らせる時報は時代が下るに従い、太鼓より遠くまで聞こえる鐘で行うことが多くなります。
ことに当時最大の人口密集都市江戸では市中9カ所に「時の鐘」が定められ、各拠点寺院では設置された和時計に従い毎正刻に鐘を撞いて時を知らせるシステムになっていました。

重たい撞木を操って、9回鐘を撞くのはけっこう大変。
それが約2時間ごとに18回・27回と増えていき…。正巳10時・正亥22時を知らせるためには、計54回撞かなければならない。
時の鐘.jpg
きっと鐘より先に、撞き手の方が”音をあげて”しまうでしょう。

そこで便宜上十の位ははしょって、一の位の数で時を知らせることになったのです。
撞く数が減ってよかったね、小坊主こまちさん。

こま正面アイコン笑い.jpg

もちろん時の鐘が多いと、撞き手だけでなく聞く方もひと苦労。

例えば名作落語『芝浜』の発端、主人公の魚屋が海辺で朝の鐘に耳を傾ける場面。
明け六つだと思って河岸へやってきたのが、実は女房に一時早く起こされてまだ五つ時。
仕方がないから暇つぶしに煙草を吸いながら夜明けの海を眺めていると、波間に何やら漂うものが見えて…というところから始まる物語。
新芝浜.jpg
鐘の音の数が二桁だったらそれを数えるのに忙しくて、海の中まで目が届かなかったかもしれません。

こうして時の鐘が普及したことにより、江戸時代の時刻の呼び方の主流は十二支の「刻」より「九つ~四つ」の方へと移っていったのです。


江戸時代の
優れもの時計たち

時の鐘と太陽や月の位置でおおよその時刻を知ることができた、江戸時代の人々。

庶民はこれで十分だったのでしょうがより正確な時刻を把握する必要がある立場の役人・学者や、贅沢品として所望する高級武士などのために。当時はけっこう精巧な時計が、日本国内で生産されていました。
殿様と時計.jpg
もちろん大変高価で、とても庶民の手の届くものではありませんでしたが。

歌川豊国・画『忠臣蔵八景 二だん目の晩鐘』。
二だん目の晩鐘.jpg
「一挺天符櫓時計」に手をかける加古川本蔵。
これ以前の時計は錘りなどの下部機構がむき出しになっていたものを、周りに覆いを付けることによって隠し工芸品としてのデザイン性をアップさせた大ヒット製品。

こま正面アイコン基本形.jpg

着脱が面倒なので腕時計というものを持たない筆者ですが、そんな私が画像を見て(あっ、これいいな!)思ったのがこちら。
べっ甲蒔絵枠時打印籠時計.jpg
「べっ甲蒔絵枠時打印籠時計」。
携帯式の小型時計ながら音が鳴る時報機能・方位磁石と簡易日時計を内蔵する優れもの。

蒔絵仕立ての外装が美術品としての評価も高いこの時計、使っていたのは水戸藩主・徳川斉昭
水戸黄門.jpg
黄門様の子孫だけに、
印籠がお好きだったんですね。



この項での錦絵と印籠時計の画像は、
☆『セイコーミュージアム銀座』公式サイト
https://museum.seiko.co.jp/
から転載させていただきました。

現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、見学は事前予約制になっている『セイコーミュージアム銀座』
セイコーミュージアム銀座.jpg
筆者は近々にweb予約、実際に足を運んで色んな時計をこの目で見てこようと思っております。

実現しましたら、また呑気記事にまとめてご披露しますね。

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