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あの有名な牛にまつわることわざの、真実に迫る! [江戸のトリビア]


令和3年年明けも、早いものでもう松のとれる頃となりました。

でも黒猫こまちのお正月は、
まだまだ終わりません!
お雑煮食べ倒れ.png

江戸時代から続く
「食べてすぐ寝ると牛」

冒頭からお雑煮をお腹がはち切れんばかりに食べて、ひっくり返っているこまち。

食欲旺盛なのはけっこうだけど、

「食べてすぐ寝ると、
 牛になっちゃうよ」。

丑年の令和3年、「牛に引かれて善光寺詣り」と並んでよく使われる言葉かもしれません。

国内のことわざ・古事成語を集めた
『俚言集覧』(
寛政9年 1797)

飯を食らいて直に寝ると牛になる。これは小児を誘導する諺なり。

こう記載があることから、江戸時代半ばにはもう人口に膾炙していたことがわかります。

私も幼い頃、両親から厳しく言われました。

でも、この教えとまるであべこべなことわざも。

こちらも大切、食後の休憩

「親が亡くなっても食(じき)休み」
「食後の一睡万病円」

こちらも、昔から言われている教え・ことわざ。

『万病円』は落語のタイトルにもなっている、江戸の万能特効薬。「万の病を丸めて直す」が謳い文句。
万病円.png

「腹の皮が突っ張れば、目の皮がたるむ」とも言いますね。

食事をすると、胃をはじめ消化器官がフル稼働。 脳への血流が控えられるので、どうしても眠気をおぼえる。

ごく自然な、生理現象。

頭があまり回らない状態で何かしても、効率が良くない。

消化器官が働いている間、当の人間はしばし横になって休息

それは火急の際にも心がけたい、万能薬にひけをとらない健康法。

「一睡万病円」「食休み」はこのように、いたって合理的な教え・生活の知恵なのです。
おばあさんの膝の上食後.png

では「食べてすぐ寝ると牛」の方は、根拠のない俗信・間違った言い伝えなのでしょうか?

大事なのは、食後のけじめ

前項の問いへの答え、

「間違ってはいません。
 根拠もあります」。


江戸時代に、
国内の風俗習慣などをまとめた
『嬉遊笑覧』
(
文政13年 1830年)には

飽くまで食らいて寝れば牛になると小児に教えるは食後に臥さしめざるなり。

と書かれています。

この文章を読み解くと、

「食べてすぐ横になる」=丑の「ある行為」を想像させ、行儀が良くないのでよしましょう。

となります。

その行為とは、こちら。
牛さん反芻.gif

牛の反芻行為。

かなり時間がかかるので、牛さん寝そべった状態でやることが多いですよね。

複数の胃袋を持ち、何度も口中と消化器官を往復させて食事する。そんな牛たちには、必要な行為ですが。

人間が食後の挨拶もそこそこに、まだ口に食べ物を頬張ったままごろんとその場に転がる。 どうしたって、いい図ではありません。

焼き芋のかけらを口に入れたまま寝ちゃうような子どもが多かった、その昔。 だからこそ幼いうちにそんな癖がつかないよう、身近にいる大人がしっかり教える。

とても大切な、
戒めの言葉だったのですね。

「食べてその場ですぐひっくり返る」のは、食事を調理・提供してくれた人に対して失礼。 また、食材となってくれた命にも礼儀を尽くしていない」。


行儀の面だけでなく「口中にまだ何か頬張った状態で横になる」のは、健康管理上危険な行為でもあります。

お正月だったら、餅を喉につかえさせたり。 最悪「逆流性胃腸炎」「誤嚥性肺炎」なんて物騒な症状の、引き金になるかも。

結論、
「食べてすぐ寝ると牛になる」は

「口の中にまだ食べ物があるうち、横になるのは礼儀上論外である」。
「食後横になるなら礼をきちんとし、口をゆすいだり身繕いをしてからにしなさい」。

という意味。

「食後一睡」「食休み」と、立派に両立する教えなのです。

車の両輪、どっちも大切。


こまちも、お腹いっぱい食べて元気なのは大いにけっこう。

でもお行儀悪くしてると、
こんなふうになっちゃうぞ。
食べてすぐ寝る牛になる.gif



皆様も牛たちのように、
しっかり食材噛みしめて。

命の恵みに感謝しつつ、
楽しく栄養を摂って。

余裕のある時は、
のんびり食休みも取りつつ。

豊かな食事で、身体も心も幸せにしてあげましょう!

蔦飾り線.png

お開きまでお付き合いいただきまして、
まことにありがとうございます。
ぜひまた、ご訪問くださいませ。
入船亭扇治拝

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5分で読めて楽しめる、江戸茶の湯と千利休トリビア [江戸のトリビア]


令和2年9月は、北海道でも熱帯夜を記録するなど全国的に暑さが続いています。
汗をかいたらまず冷たい清涼飲料水か、生ビール!

でも、ちょっと待ってください。
暑い時こそ香り高い日本茶でゆったり気分、
味わってみませんか?

えっ、この役者さんがこの役を
お茶にまつわるトリビアクイズ


私が毎月担当しているカルチャー講座、
9月のテーマは「江戸の茶道」について。
1時間ほどの解説に続いて、落語『茶の湯』を1席。

その時の講座内容から、ブログ記事用に要所を抜粋・再編集してみました。
まずは皆様を、風雅なお茶室へとご案内。
お茶室こまち.png

我が家の黒猫こまちが、
今日は亭主を務めさせていただきます。
お茶のお作法ではありませんが日本の習慣を守り、
畳のへりをよけているところ見てやってください。

このあとごく簡単に、
わが国のお茶についてのお話を申し上げますが…。
まずはTwitterでも出題のトリビアクイズ。
日本の侘び茶道中興の祖と言えばこの方、 千利休。
千利休とこまち.png

はいはい、こまちもあとでちゃんと出番あるから。
今はちょっとCIAOちゅ~るなめながら、話聞いててね。


1522年堺の豪商の子に産まれた利休は、
商いの傍ら嗜みとして修めたお茶の世界でも才能を発揮。

現代の茶道につながる
「極力華美・無駄を排し、
茶室空間・道具と礼式・作法を一体化させる」
侘び茶の道を確立したのが、60歳を過ぎてから。

歳をとってから大きな仕事をしたというのは、
噺家だと圓生師匠を思い起こさせます。
その才知と人格ゆえに織田信長・豊臣秀吉に重用され、
趣味人でありながら政治経済の世界でも重要人物だった利休。

しかし経済自治区だった堺の扱いなどを巡って、中央集権化を着々進める秀吉と利休の考えはだんだんと違う方向へ。
ついには「懐刀」と言われるほど寵愛を受けていた秀吉の逆鱗に触れ、1591年利休は切腹して果てます。


劇的な生涯を送った我が国お茶の世界の巨人は、
今まで様々な映画やドラマの題材となってきました。

ざっと思い出しただけでも、
平幹二郎
三船敏郎
三国連太郎
伊武雅刀
石坂浩二…

きら星のごときスター・個性派俳優の方々が、利休を演じています。
そうそう、桂文枝師匠もNHK大河ドラマ『真田丸』で気持ちよさそうに演じてらっしゃいましたね。

さてここで、大河ドラマ絡みの問題です。

菅原文太
高倉健
鶴田浩二

と並べば、言わずと知れた東映任侠映画の三大スター
この中で一人だけ
NHK大河ドラマで千利休を演じた俳優がいます。
いったい、誰でしょうか?

すぐ答えがわかった方は、そのまま次項へどうぞ。
思いつかない方、ネットでお調べになる前に
まずはご自分で考えたり記憶を探ってみてください。
正解は、記事のおしまいにて。

丸めて飲んでいた、最初期のお茶


☆奈良時代、遣唐使や中国・インドから来朝した僧侶らが茶を飲む習慣を日本に伝えたとされる。
☆平安時代に入り、唐代へ仏教留学した最澄・空海らが茶葉を持ち帰る。

この頃のお茶は天皇・高級貴族の口にしか入らない珍重品ですが、茶葉を煎じた味と香りを楽しむ嗜好品ではありませんでした。
心身の疲れを癒すための、薬として用いられていたのです。

飲み方も今とはまるで違い、
まず葉を蒸して丸め団子にして保存。
その団子を必要なだけ削り、
上から熱湯をかけて飲むのが当時のお茶。


その名も見た様で
団茶
現代のティーバッグや、カップラーメンにちょっと似ていますね。

喫茶作法の始まりと、対極に娯楽としてのお茶も


☆鎌倉時代、宋代中国へ禅の修行に行った栄西が持ち帰った茶の実を九州背振山に植えたものが育ち、初の国産茶葉に。
☆栄西のあと中国へ禅宗留学をした道元が、禅の教えを取り入れたお茶を飲むための作法「喫茶」「行茶」などの茶礼を定める。

当時の「喫茶」というのは禅宗修行の一環でもあり、
いろんな細かい作法が定められています。

現代のように、
「ちょっと喫チャ店で、コーシー飲みながら競馬の予想して来るわ。ついちゃあ母ちゃん小遣いちょうだい、愛してるよー」
なんて気軽なもんじゃなかったんですね。

貴族の間では高尚風雅な嗜みのお茶、
武士階級ではお茶が娯楽だった時代がありました。
鎌倉時代末から室町時代にかけて武士たちの間で大流行した
「闘茶」

当時高級茶葉の本場とされた京都栂尾産・明恵(みょうえ)上人謹製のものを、「本茶」
それ以外のお茶を「非茶」と呼び、色・味・香りで本非どちらかを当てるという遊び。

方々で戦乱が続き明日の命も知れぬ武士にとっての、
手っ取り早い刹那的娯楽として大流行。
莫大な金銭・刀剣や武具も賭けての闘茶はあまりにも賭博性が強すぎるということから、寺方や朝廷・幕府から禁令が出されたほど。

ゴージャス系茶道が人気だった時代も


☆室町時代
同朋衆
(将軍に文化娯楽について進言する芸能人。
劇団四季の浅利慶太氏みたいなものですね)
だった能阿弥が、

中国渡来の台子
(だいす。茶道具を収めるための移動式棚。
テレビの通販で売っている、急須や茶碗を入れるキャスター付きのワゴンを想像していただければ)
などの道具と器を組み合わせた
「台子飾(だいすかざり」 というお茶の礼法を完成。

能の足の運びや弓の技法も取り入れた、
館うちでのいわゆる「書院の茶」全盛の時代がしばらく続きます。
禅と一体だった頃の喫茶法よりは様式美を重視し、
扱われる道具も高価な渡来ものがほとんど。
代表的なのが、こちら。
カラスと曜変天目.png


釉薬のかかり方が特徴的な、曜変天目茶碗
わが国では4点所蔵されているだけの国宝・文化財。

カラスたちには、表面の文様が大きな目玉に見えて怖いようです。
北の大空を舞う、農家を守る紅の翼
の記事の、鳥追いカイトみたい。
一緒にしちゃ、茶碗に失礼ですが。

書院台子のお茶は貴族階級だけでなく、
闘茶を禁じられた武士たちの間でも盛んにおこなわれました。

作法を守り茶を嗜むほかに、所蔵する高価な茶道具を招いた相手に見せて自らの経済力を誇示するのも大きな目的の一つ。
また当時の茶会は宴席でもありましたから、一派の武士たちが集まって敵対勢力との対し方などを稟議する 密談の場 としてもお茶席は重要でした。

華美を排した、侘び茶の時代へ


1980年代バブル期の日本のように、
どんどんエスカレートしたゴージャス系茶の湯
それに疑問を抱き本来の禅と結びついた 「侘び茶」 を提唱したのが、とんち話でおなじみ一休禅師に学んだ村田珠光

「できるだけ華美贅沢を排し、身分の差関係なく茶の席に連なる。
足らないものを欲しがるのではなく、今あるものに感謝し満足する。
五感を研ぎ澄ませて茶を味わうことで、人や自然と虚心坦懐に触れ合う」

そういった考えの茶席で使われる道具は、
派手な中国産から素朴な国産品が増えていきます。
私の生まれ故郷岐阜県=美濃の国の志野焼もその一つ。
志野茶碗とこまち.png


「これで猫にご飯食べさせときますとな…。
ときどきその猫が、旅の方に三両で売れますんで」
落語『猫の皿』を思い出したんで、
獲物ゲットバージョンのこまちを配してみました。

そして落語に出てくる茶道具と言えば…。

小井戸茶碗.png


名器、井戸の茶碗。
高麗産ですが、先ほどの天目茶碗より質実剛健なイメージ。

私がやった落語『井戸の茶碗』を聴いて名人・古今亭志ん朝師匠が、アドバイスをくださったことが。
知らなかったので千代田朴斎や清兵衛が茶碗を持つ時、私は湯?みみたいな形だと思ってやってました。

ご覧の通り今に残る井戸茶碗は、
口が大きく開いているのが特徴。

「だから両手で包み込むんじゃなく、下から支えるように持つのが正しいんだよ。
いや僕も最初は知らなくて、親父(古今亭志ん生師匠)に言われて初めてわかったんだけどさ」

華やかに笑いながら教えてくれた、平成・昭和の名人

名人古今亭志ん朝のお宝エピソード
の記事でも書きましたが、そのあまりにも早過ぎる旅立ち。
しかしたくさんの想い出を、お客様や仲間にくれた心優しい大先輩。
あちらへ行った時少しでも恥ずかしくないよう、私ももっと精進しなくちゃ。

千利休の残した、三つのもの


クイズの正解の前に、もう少ーしだけお茶トリビアを。
茶の湯(お茶が正式に幕府の礼法に取り入れられ「茶道」となるのは、利休の没後)の巨人・千利休の偉大なる遺産について。

①まず、名言
利休はお茶席に関する言葉を数多く遺していますが、
その代表格はなんといっても

一期一会

これです。

以前から禅の教えの中にこの考え方に通じるものはあったそうですが、それをこれだけ端的に言い現わすとは。
さすが無駄を省いた侘び茶の巨匠、本当に頭のいい方で言葉の使い方のセンスも抜群だったんですね。
私も落語や雑俳をやるうえで、見習いたいもの。  

②意外な日用品
皆さんは普段お使いになることはないでしょうが、
昔の人には必需品
現代でもお相撲さん・役者さん・私ども噺家、
そして昔かたぎのヤ〇ザさんが履いている

雪駄

が、利休ゆかりの発明品。

いわれは諸説あって、
☆雨の日にお茶会に来る方が、草で編んだ草履履きだと道中足が濡れて冷たい。
そこで利休自身か知り合いの茶人が、草履の裏に防水用の皮を貼り鋲で留めることを考案。

☆庭木に水をやっている最中の利休が、濡れた地面で足を滑らせたのを見た織田信長。
大事な茶人の体に障りがあってはならじと、家来に命じて滑り止め目的で動物の皮を貼らせた。

うーん、どっちもうなずける説。
いずれにしても利休がいなければ、
この世に存在しなかったかもしれない雪駄。
私たちは、千利休のお墓の方には足を向けて寝られません。

③今でも頻繁に使う、日常語
自身の造語ではありませんが、

名物

も千利休あっての言葉。

今では
「ナゴヤドーム名物ドアラのバク転」
「広島名物もみじ饅頭」
といった使い方をしますが、
もともとは茶道具の銘品を指した言葉。

さらに「名物」も時代によって3つに分かれており
(1)利休以前の銘品=大名物
(2)利休自身・門弟の鑑定による品=名物
(3)利休の教えを継ぐ小堀遠州が名器と定めた道具=中興名物?
の3種類。

これから類推するに、
「この品は、いいですね。これは正真正銘、名物と言っていいでしょう」
という言い方は以前からあったとしても、頻繁に使い人口に膾炙させたのは利休だったのではないでしょうか。

『開運!なんでも鑑定団』の中島誠之助さんの名文句
「いい仕事してますね!」みたいに、
当時の流行語になっていったのでは。
そう、愚考する次第です。

さあ、トリビアクイズ正解発表!


ではお待たせしました。
おしまいに
「東映任侠路線三大スターで、
大河ドラマで利休を演じたことがあるのは誰?」
答えを、こまち宗匠から発表してもらいましょう。

ここまでわからなかった方のために、ヒントを二つ。
・三人のうち一人は、映画に比べテレビドラマ出演の本数が極端に少ない。
・幕末を舞台にした大河で、利休が出たドラマと近い時期に主人公を演じたことがある俳優が一人いる。

ここから消去法で考えると、けっこうすぐわかっちゃうかも。
それではこまち師匠、お願いします。


蔦飾り線.png

お開きまでお付き合いいただきまして、まことにありがとうございます。
ぜひまた、ご訪問くださいませ。
入船亭扇治

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江戸のタクシー「駕籠」のスピードは、どれくらいだった? [江戸のトリビア]

当時としてはいちばん贅沢な乗り物だった、江戸時代の駕籠。

一人のお客を二人以上の人間が担ぐのですから当然お高いものについた料金については別記事で触れるとして、今回は「駕籠はどれくらいの速さで人を運ぶことができたか」に注目。


自転車はどれくらいのスピードが出る?



でご紹介した数理パズル、正解は記事のおしまいにあります。

問題中に「2匹の猫が互いに時速20キロの速さで自転車を漕ぐ」という設定がありますが、現代の自転車はいったいどれくらいの速さなのか。

本題の駕籠の前に、ちょっと調べてみました。

・競輪やツール・ド・フランスで使われるロードレーサー・ロードバイクと呼ばれる高性能自転車の平均時速、40キロ
プロの選手は、時速70キロ以上の世界で勝負しているそうです。
・悪路でも走りやすいマウンテンバイクは平均時速20~25キロ、一般の人が頑張って走ると45~50キロで走行することが可能。
・ごく普通のママチャリには複雑なギアが構成されていないので平均時速12~18キロ、かなり気を入れて走っても30キロが限界。

してみると猫たちはペダルに足が届くかどうかの3D体型ながら、よく健闘している方と言えるでしょう。

5自転車パズル.png


人間の歩く速度と、江戸ッ子の健脚

機械に頼らず自分の足で歩くと、平均的な成人で時速4キロくらい。

不動産屋さんの物件紹介にある「駅より徒歩~分」はここから算出しているんですね。

マラソンランナーは20キロ以上のスピードで走り、「世界最速の男」ウサイン・ボルト選手は100メートル走での最高時速なんと45キロ


江戸時代の人々は成人男子で1里(4キロ)を1時間、ご婦人でも1時間半で踏破したそうです。

現代人とほとんど同じ歩く速度に思えますが、

①体格が今の日本人より小柄で、当然歩幅も狭かった
②洋服より裾捌きが難しい、和服での移動。
③履物も足全体を包み込む靴ではなく、脱げやすい下駄・草履・草鞋。


の諸点を勘案すると、江戸ッ子たちは私どもよりはるかに健脚でした。


②については私も経験があって、普段洋服だと最寄りの地下鉄駅まで徒歩6分のところ、正月で着物を着て歩くと倍近くかかったりします。

③の足元。足の親指と人差し指の股で鼻緒を挟む履物で100メートル10秒を切るのは、


の記事で取り上げた未来少年コナンか、じゃりン子チエでないと無理でしょう。


さらに余談ながら、映画やドラマの『金田一耕助シリーズ』。等々力警部から事件の知らせを聞いたよれよれの着物に下駄履きの名探偵が、現場に駆けつけるシーン。

記憶違いかもしれませんが、えらい勢いで走る耕助をとらえたカメラが足元まで映してないことがけっこうあったような気がします。

本当に下駄履きで走らせて石坂浩二や古谷一行に怪我をさせては大変なので、スタッフが気を使ったのかもしれません。


本題、駕籠のスピードは?

ずばり、時速4キロ

なんだ歩くのとおんなしか、ちっとも速かねぇじゃねぇかとおっしゃる方。

担ぐ方の立場で人間一人プラス、駕籠の重さを考えてみてください。

お公家様がお乗りになるような豪華な乗り物でなく庶民向けの駕籠も、人の荷重に耐えるだけの強度が必要ですからそれ自体かなりの重量があったはず。

それを先棒・後棒息を合わせなるべく揺らさないように担ぐんですから、歩くのと同じ時速4キロ出せたら大健闘


普段使いの駕籠は、スピードよりも「自分の足を使わず移動できる」快適さを求めるものだったんですね。

落語『紋三郎稲荷』に主人公の侍が

僅かな駕籠賃で、笠間から松戸まで座ったまま埃も被らず行くことができる。病あげくの身には、まことにありがたいことだ。

垂れを下ろした駕籠の中でこっくりこっくり、居眠りを始める場面があります。




駕籠こまちとおさる.gif


スピード重視の駕籠も

重要な知らせを、急いで遠方に届けることになりました。

それも飛脚を使って書状を送るだけでなく、状況説明や先方との折衝・協議するための人材も派遣しなくてはならない

その人が馬術に長けていなかったりご老体だったりしたら、早馬を飛ばしてという手段は無理。


そんな時は、スピードを重視した駕籠の出番。

江戸時代駕籠の最速記録はなんといっても

松の廊下での浅野内匠頭刃傷事件の知らせを携えた使者を、国元播州赤穂城まで運んだ早駕籠。

江戸から赤穂までの155里=約620キロを、4日半で走破。


物見遊山でのんびり行くお伊勢参りの道中、日本橋から京都三条大橋まで約495キロを当時の江戸ッ子たちは15日から20日近くかけて移動。

それと比較すると、いかに赤穂への早駕籠が速かったかがおわかりいただけるかと。

その時速、6キロ。町中や街道を普通に往来する駕籠より、2キロスピードアップしています。


当然二人だけで担いだわけではなく、宿場宿場で担ぎ手を替えつつ

先棒・後棒に「代わり肩」などと呼ばれる交代要員が二人伴走。

適宜担ぎ手が入れ替わる「四枚(よまい)」の駕籠でした。

兵庫県赤穂市と相生市の中間にある高取峠で、「赤穂早駕籠の像」を見ることができます。


幕府の内匠頭切腹・赤穂城明け渡しの報を知らせる際にも早駕籠が仕立てられますが、刃傷事件を知らせる駕籠に乗ったのは
・早水藤左衛門
・萱野三平
の二名。
後者は『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平。『五段目』『六段目』清元の舞踊として独立した『道行旅路花婿』でいいところを見せる二枚目ですね。

もう一人の早見藤左衛門。町人出身で弓の達人というおいしそうなキャラなのに、私の勘違いかもしれませんが文楽・歌舞伎には出てこない。

勘平の名字を「早野」にして、藤左衛門の「早水」と合体させたのかも。


付け足しトリビア、「なぜ駕籠に車輪を付けなかったのか?」

我が国の人工的な陸路移動手段は、「輿」「牛車」の二系統で始まりました。

「輿」は屋形を組んで、下を支える二本以上の棒を人が担ぐ貴族の乗り物。神様がお乗りになる輿が、「お神輿」ですね。
落語『茶金(はてなの茶碗)』で帝さまにお目にかけるため茶屋金兵衛の店から、輿に載せて茶碗を宮中へ運ぶくだりがあります。

「牛車」もやんごとない方・身分の高い人のお乗り物。
中国伝来で、蒔絵や彫り物で飾られた車を大きな牛がゆったり引いて歩く優雅な移動手段でした。

牛歩というくらいでスピードは出ませんから、実用というよりは角を生やした立派な牛が豪華な車を引く。公家階級の威厳と威光を表す意味が強い乗り物と言えるでしょう。


輿を発展させ庶民向けにしたのが駕籠ですが、牛車の方向で改良していく方向性もあったと思います。
輿に車輪を付けて馬に引かせる、西洋の馬車の発想がなぜ日本にはなかったのでしょうか。

ひとつには

足の早い馬はほとんど武士階級で管理しており、農耕馬か落語『三人旅』に出てくる馬くらいしか庶民には任せられなかった

から。


そしてそれ以上に江戸時代馬車のような乗り物が定着しなかったのは

乗り心地

これに尽きます。


今のように舗装されていないでこぼこの道を、安普請の輿にサスペンション無しで車輪を取り付けたものを馬が引っ張って駆け出したら。

おそらくすぐ腰とお尻が痛くなって、五分と乗っていられないのでは。


「こりゃたまらん。おーい馬子さんちょいと止めとくれよ」

声をかけようとするとたん舌を噛んだり、天井に頭をぶつけて目を回したり。

そんなところから車付き駕籠考えた人はいても実用化されなかったという学説が有力。

まぁ学説というより楽屋の説=楽説ですから、あんまり当てにならないかもしれませんけど。


数理パズル答え

2匹の猫が出会うまでに、ハエが飛んだ距離=30キロ


出発時点で2匹に猫は互いに40キロ離れてますから、間を往復しているハエは最低でも40キロ以上は飛ぶ。

こう考えると、この問題は袋小路に入ってしまいます。

まず、「2匹の猫が出会うのは出発してから何時間後か」に注目。


互いに時速20キロで40キロの距離を詰めていきますから、20キロずつ進んだところで猫たちは出会います。

時速20キロの自転車で20キロ進むのに要した時間、ちょうど1時間


ハエは2匹の猫の間しか移動しませんから、飛んでいた時間はやはり1時間。

時速30キロで飛ぶハエが1時間移動した距離、

30キロ

ガッテンしていただけましたでしょうか?

蔦飾り線.png

ネット上で皆様と遊んでいる『第2回web版言の葉落語会』、ご希望のお客様からの互選・選句募集の締切は、6月20日(土)23時59分

まだまだ、お時間ございますよ。

ぜひあなたも噺家とご一緒に、お好みの句に気の利いた「効き」を付けてみませんか?

もちろん句を選ぶだけでも、投句なさってない方でもけっこうです!


の入力フォームからお気軽に、ご応募ください。

宗匠・選者一同心よりお待ち申し上げております。




なんてところも、覗いていただけましたら。

お開きまでお付き合いいただきまして、まことにありがとうございます。

ぜひまた、ご訪問くださいませ。

入船亭扇治拝

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