江戸のタクシー「駕籠」のスピードは、どれくらいだった? [江戸のトリビア]
当時としてはいちばん贅沢な乗り物だった、江戸時代の駕籠。
一人のお客を二人以上の人間が担ぐのですから当然お高いものについた料金については別記事で触れるとして、今回は「駕籠はどれくらいの速さで人を運ぶことができたか」に注目。
自転車はどれくらいのスピードが出る?
でご紹介した数理パズル、正解は記事のおしまいにあります。
問題中に「2匹の猫が互いに時速20キロの速さで自転車を漕ぐ」という設定がありますが、現代の自転車はいったいどれくらいの速さなのか。
本題の駕籠の前に、ちょっと調べてみました。
してみると猫たちはペダルに足が届くかどうかの3D体型ながら、よく健闘している方と言えるでしょう。
人間の歩く速度と、江戸ッ子の健脚
機械に頼らず自分の足で歩くと、平均的な成人で時速4キロくらい。
不動産屋さんの物件紹介にある「駅より徒歩~分」はここから算出しているんですね。
マラソンランナーは20キロ以上のスピードで走り、「世界最速の男」ウサイン・ボルト選手は100メートル走での最高時速なんと45キロ。
江戸時代の人々は成人男子で1里(4キロ)を1時間、ご婦人でも1時間半で踏破したそうです。
現代人とほとんど同じ歩く速度に思えますが、
の諸点を勘案すると、江戸ッ子たちは私どもよりはるかに健脚でした。
②については私も経験があって、普段洋服だと最寄りの地下鉄駅まで徒歩6分のところ、正月で着物を着て歩くと倍近くかかったりします。
③の足元。足の親指と人差し指の股で鼻緒を挟む履物で100メートル10秒を切るのは、
の記事で取り上げた未来少年コナンか、じゃりン子チエでないと無理でしょう。
さらに余談ながら、映画やドラマの『金田一耕助シリーズ』。等々力警部から事件の知らせを聞いたよれよれの着物に下駄履きの名探偵が、現場に駆けつけるシーン。
記憶違いかもしれませんが、えらい勢いで走る耕助をとらえたカメラが足元まで映してないことがけっこうあったような気がします。
本当に下駄履きで走らせて石坂浩二や古谷一行に怪我をさせては大変なので、スタッフが気を使ったのかもしれません。
本題、駕籠のスピードは?
ずばり、時速4キロ。
なんだ歩くのとおんなしか、ちっとも速かねぇじゃねぇかとおっしゃる方。
担ぐ方の立場で人間一人プラス、駕籠の重さを考えてみてください。
お公家様がお乗りになるような豪華な乗り物でなく庶民向けの駕籠も、人の荷重に耐えるだけの強度が必要ですからそれ自体かなりの重量があったはず。
それを先棒・後棒息を合わせなるべく揺らさないように担ぐんですから、歩くのと同じ時速4キロ出せたら大健闘。
普段使いの駕籠は、スピードよりも「自分の足を使わず移動できる」快適さを求めるものだったんですね。
落語『紋三郎稲荷』に主人公の侍が
僅かな駕籠賃で、笠間から松戸まで座ったまま埃も被らず行くことができる。病あげくの身には、まことにありがたいことだ。
垂れを下ろした駕籠の中でこっくりこっくり、居眠りを始める場面があります。
スピード重視の駕籠も
重要な知らせを、急いで遠方に届けることになりました。
それも飛脚を使って書状を送るだけでなく、状況説明や先方との折衝・協議するための人材も派遣しなくてはならない。
その人が馬術に長けていなかったりご老体だったりしたら、早馬を飛ばしてという手段は無理。
そんな時は、スピードを重視した駕籠の出番。
江戸時代駕籠の最速記録はなんといっても
松の廊下での浅野内匠頭刃傷事件の知らせを携えた使者を、国元播州赤穂城まで運んだ早駕籠。
江戸から赤穂までの155里=約620キロを、4日半で走破。
物見遊山でのんびり行くお伊勢参りの道中、日本橋から京都三条大橋まで約495キロを当時の江戸ッ子たちは15日から20日近くかけて移動。
それと比較すると、いかに赤穂への早駕籠が速かったかがおわかりいただけるかと。
その時速、6キロ。町中や街道を普通に往来する駕籠より、2キロスピードアップしています。
当然二人だけで担いだわけではなく、宿場宿場で担ぎ手を替えつつ
先棒・後棒に「代わり肩」などと呼ばれる交代要員が二人伴走。
適宜担ぎ手が入れ替わる「四枚(よまい)」の駕籠でした。
兵庫県赤穂市と相生市の中間にある高取峠で、「赤穂早駕籠の像」を見ることができます。
幕府の内匠頭切腹・赤穂城明け渡しの報を知らせる際にも早駕籠が仕立てられますが、刃傷事件を知らせる駕籠に乗ったのは
・早水藤左衛門
・萱野三平
の二名。
後者は『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平。『五段目』『六段目』清元の舞踊として独立した『道行旅路花婿』でいいところを見せる二枚目ですね。
もう一人の早見藤左衛門。町人出身で弓の達人というおいしそうなキャラなのに、私の勘違いかもしれませんが文楽・歌舞伎には出てこない。
勘平の名字を「早野」にして、藤左衛門の「早水」と合体させたのかも。
付け足しトリビア、「なぜ駕籠に車輪を付けなかったのか?」
我が国の人工的な陸路移動手段は、「輿」と「牛車」の二系統で始まりました。
「輿」は屋形を組んで、下を支える二本以上の棒を人が担ぐ貴族の乗り物。神様がお乗りになる輿が、「お神輿」ですね。
落語『茶金(はてなの茶碗)』で帝さまにお目にかけるため茶屋金兵衛の店から、輿に載せて茶碗を宮中へ運ぶくだりがあります。
「牛車」もやんごとない方・身分の高い人のお乗り物。
中国伝来で、蒔絵や彫り物で飾られた車を大きな牛がゆったり引いて歩く優雅な移動手段でした。
牛歩というくらいでスピードは出ませんから、実用というよりは角を生やした立派な牛が豪華な車を引く。公家階級の威厳と威光を表す意味が強い乗り物と言えるでしょう。
輿を発展させ庶民向けにしたのが駕籠ですが、牛車の方向で改良していく方向性もあったと思います。
輿に車輪を付けて馬に引かせる、西洋の馬車の発想がなぜ日本にはなかったのでしょうか。
ひとつには
から。
そしてそれ以上に江戸時代馬車のような乗り物が定着しなかったのは
乗り心地
これに尽きます。
今のように舗装されていないでこぼこの道を、安普請の輿にサスペンション無しで車輪を取り付けたものを馬が引っ張って駆け出したら。
おそらくすぐ腰とお尻が痛くなって、五分と乗っていられないのでは。
「こりゃたまらん。おーい馬子さんちょいと止めとくれよ」
声をかけようとするとたん舌を噛んだり、天井に頭をぶつけて目を回したり。
そんなところから車付き駕籠、考えた人はいても実用化されなかったという学説が有力。
まぁ学説というより楽屋の説=楽説ですから、あんまり当てにならないかもしれませんけど。
数理パズル答え
2匹の猫が出会うまでに、ハエが飛んだ距離=30キロ。
出発時点で2匹に猫は互いに40キロ離れてますから、間を往復しているハエは最低でも40キロ以上は飛ぶ。
こう考えると、この問題は袋小路に入ってしまいます。
まず、「2匹の猫が出会うのは出発してから何時間後か」に注目。
互いに時速20キロで40キロの距離を詰めていきますから、20キロずつ進んだところで猫たちは出会います。
時速20キロの自転車で20キロ進むのに要した時間、ちょうど1時間。
ハエは2匹の猫の間しか移動しませんから、飛んでいた時間はやはり1時間。
時速30キロで飛ぶハエが1時間移動した距離、
30キロ
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入船亭扇治拝